慈眼寺?

「ところで慈眼寺って?」
と言う読者の方もいらっしゃるかもしれませんので、ここで少し説明させて頂きます。
慈眼寺が史跡として最大の輝きを放っているのは戊辰戦争の時の「小千谷会談」にあります。
司馬遼太郎の名作「峠」の舞台となった戊辰戦争における最大の激戦地、北越戦争において、戦争回避を模索する長岡藩家老の河合継之助と、北越地方の完全制圧を目論む明治新政府軍の山道軍軍監で土佐藩出身の岩村精一郎が慈眼寺にて会談を行いました。
それがこの「小千谷会談」です。
この会談の結果は河合の提案を岩村が一蹴する形で決裂したのですが、実はこの会談こそが戊辰戦争を、日本の未来を左右する分水嶺だったのです。
河合の類希なる才能を見抜いていた参謀の長州藩士山県狂介(山県有朋、後に総理大臣)は岩村の対応を聞いて激しく怒ると共に、河合を敵に回したまま帰藩させることを恐れて捕らえる様に命令しています。
また、同じく参謀であった薩摩藩士黒田了介(黒田清隆、後に総理大臣)は独自に今一度会談を持ちたいと河合に書状を送りますが、その書状が付く前に戦争が始まってしまいます。
そして最大の激戦となったこの戦争では日本の夜明けを嘱望された多数の志士が戦死しています。
後に総理大臣を務めた人物2人が買っていた河合継之助、彼と彼の構想を理解できる人間が会談していれば大きく結果は変わっていたことでしょう。

慈眼寺HP

総督府資料館「北越戦争」

ようこそ越後の山々へ「朝日山」